1 裁判員裁判の実現が現実味を帯びてきた2000年前後頃から、市民の一部から猛烈な反対論が提起されるようになりました。この人達の言い分は、一見もっともな所があり、かつ、彼らは真面目なのです。私は、この人達を良心的反対論者と呼んでいます。この人達の主張を整理すると、およそ次のとおりです。

「現代は分業の時代である。世の中が進歩すると、専門化が進む。専門は専門家に任すべきであり、それが合理的である。例えば、天気予報や地震観測あるいは経済予測などそれぞれの専門家の判断を尊重するのが合理的であり、そこへ素人を入れたからといって、予測の精度が高まるわけではない。もっと分かりやすい例を言えば、プロ野球やプロサッカーのチームに素人を入れたからといって、そのチームが強くなるのか。なるわけがない。専門家はその分野において能力のある者がさらに勉強して努力して技術を磨いているものであり、そこへ素人を入れたとしても、足を引っ張るだけで、その専門家の集団に何の貢献もしない。」「裁判官も同じである。法律の勉強をマスターし、法律に詳しい裁判官の中へ、素人が入ったからといって、裁判の中身が良くなるわけがない。議論の邪魔をするか、そうでないとしても足手まといになるだけだ。裁判に余計な時間がかかり、被告人等裁判当事者にも迷惑をかける。」「また、その人達すなわち裁判員の日当も国家が負担するとなると、ただでさえ赤字に苦しんでいる財政をさらに圧迫することになる。また、裁判員とされた人達も、貴重な時間を裁判に奪われる。こんな不合理な制度を導入するなんて狂気の沙汰である。」

2 私たちが、裁判員裁判あるいは市民の裁判参加を訴える際、論拠の1つとしていたのが、外国との比較でした。すなわち、「先進国では市民参加のない司法はありません。例えばアメリカ合衆国、イギリス、カナダなどは陪審制、フランス、ドイツ、イタリアなどは参審制、と形態は違いますが、いずれも市民が司法に参加しています。先進国で市民参加のない国は日本しかありません。」

しかし、良心的反対論者に言わせれば、「だからどうだと言うんだ。外国がやっているからといって、不合理な制度を真似る必要がどこにある。」となります。

外国との比較だけでは説得力がありません。他に良い説得方法がないか。

3 その前に、私たち司法への市民参加を訴える者と良心的反対論者の違いはどこから生まれてくるのか、それを考えてみました。

結局、それは現在の職業的裁判官の評価の違いに帰着することが分かりました。すなわち、良心的反対論者は職業的裁判官をよく知りません。彼らは、裁判官を少なくとも大過なく事件をこなしている、真面目で学力優秀な人達と見ています。そして、それは一面ではあたっていると思います。一方、司法への市民参加を訴えている者は、多くが弁護士あるいは裁判経験者です。とりわけ刑事裁判とか行政裁判などで被告人や市民側に立って権力と戦った(そしてほとんどは敗れた)人達です。この人達は、職業的裁判官に対し、根本的な不信感を持っています。少なくとも、刑事事件や行政事件について、職業的裁判官だけに任せていては、正義が実現されないと確信している人達です。つまり職業的裁判官に対する評価、というか認識に違いがあるのです。

4 しかし、職業的裁判官に任せてはいけないといっても、そこへ市民すなわち素人を参加させることによって、なぜ、司法が良くなるのか。それはなぜなのか。そこが説明できなければなりません。

  私が色々と考えたあげく到達したのは、裁判の本質とは何かという問題でした。裁判の本質とは何か。それは正義の実現である。裁判は英語でJusticeといいますが、Justiceには正義という意味もあります。正義は専門家のものなのか。そうではない。専門家に任すことができないものがある。その1つが司法である。正義は専門家(裁判官)が独占することができないものの1つである、というのが私の結論でした。

5 正義とは何か。動物の世界において、とりわけライオンや熊の世界において、オスの赤ちゃん殺しがあります。ライオンは一夫多妻ですが、オスが老衰してくると、若いオスがその座を狙って決闘を申し込みます。老いぼれを追い出すと、若いオスは乳幼児を噛み殺します。メスは発情して、若いオスを受け入れます。こうして新しい一夫多妻が成立します。これがオスの子殺しですが、これは種の保存という原則からすると、実は理にかなった行動なのです。結果的に強いオスの子孫が残るわけであり、種の保存の観点からすると合理的だと思えるのです。

しかし、これは、人間から見ると極めて反倫理的であり、とても受け入れられるものではありません。人間から見ると、これは正義に反する行動なのです。

私は、人間というのは、正義を好む動物だと思います。動物の中で人間の特性をいう場合、例えば、人間は言葉を持つ動物だとか、人間は火を使うことができる動物とかいいますが、私は、人間は正義を愛する動物ではないかと思います。人間は、正義が実現されないと満足できない性格を持つようです。正義というのは、強弱とは別のところにあります。

日本のテレビや映画で、「遠山の金さん」とか「水戸黄門」とか「大岡越前」など繰り返し放映されています。これらのドラマの筋書きは皆同じです。弱いけれど正義の人達がいます。一方、強いけれど不正義すなわち悪の人達がいます。弱い正義は強い悪に虐げられます。視聴者はこの不正義を許せません。何とかならないかと強く願います。そのとき、遠山の金さんや水戸黄門などスーパーヒーローが現れ、悪をくじき正義を実現します。視聴者は安堵の胸をなでおろします。勧善懲悪の物語ですが、これは日本だけではありません。古今東西、人類の共通の物語なのです。私は、これは人間が正義を愛する動物だからなのだと思います。

6 裁判が正義を実現することだとしたら、どう裁判をしたらよいのか。そもそも、人が人を裁くことができるのか、という大命題があります。もちろん、人を正しく裁くことができるとしたら、それは神様だけです。しかし、神様が存在しない(少なくとも目の前には存在しない)以上、神様に近づく工夫をしなければなりません。大昔は、真実を見極めるために、熱湯に手を入れさせてシロクロをつけた裁判方法もあったそうですが、必ずしも合理的とは言えません。

人類は、歴史的に裁判を神様に近づけるための工夫をしてきたように思います。例えば、裁判公開の原則です。裁判は密室ではやらない、皆の眼が見ている前でやる、たしかにこれは1つの合理的な方法だと思います。三審制度もそうです。神様なら間違いません。しかし、人間の裁きですから間違いもあります。ですから3回の機会を設けて誤りのないように慎重にします。無罪推定の原則もそうです。過ちを犯す可能性のある人間だから、この原則を立てるのです。

陪審制や参審制なども、それらの工夫の1つだと思います。正義は、職業的裁判官の独占物ではない、市民が参加することで(正義が)実現する可能性が高くなる、という認識があったのだと思います。

7 ある裁判官から、裁判員裁判の評議について感想を聞いたことがあります。彼は、裁判員が自分の経験を実に率直に話す、ことに驚いていました。裁判官だけの合議となるとこうはいかない、例えば、強姦の被害者感情を論ずるとき、裁判官は、仮に肉親に強姦被害者がいて、その肉声を知っていたとしても、それを自分の経験として話すことができない、と言うのです。なぜなら、合議の相手方の裁判官は同僚であり、将来の交流があり得ます。その人達に自分の秘密をとても話す気にはなれない、というのです。しかし、裁判員達にとって、裁判はその1回のみです。稀に一生のうち2回裁判員を経験する人がいるかもしれませんが、それこそ例外でしょう。裁判員は、他の裁判員の人達や裁判官と将来二度と会う機会もないことでしょう。そのことが、自分の秘密を暴露することへの抵抗を低くしているのかもしれません。

この将来二度と会うこともないであろう人達の前では、人間は自分を飾る必要がありません。彼らにとって恐いものは何もありません。純粋に、己の本心に従って正義を追求することができます。私は、そういう素人に大いに期待したいと思います。損得とは全く関係のない曇りのない眼で、自分の今までの人生経験をたよりに下す判断に私は期待したいのです。

職業的裁判官も人間です。裁判官になるときは理想も抱いていたはずです。裁判員の率直な感想や意見に触れるとき、裁判官も初心を思い出すのではないでしょうか。

8 たしかに、裁判員を務める市民は、貴重な時間それも相当の時間をとられます。重い責任も負うことになります。決して快いものではないかもしれません。しかし、裁判が正義の実現を図るためのものであり、それは市民にとっても、いや市民にこそ必要なことだと考えれば、これは国民の義務だけではなく権利であり、敢えて負担すべきものではないでしょうか。

9 これでは、良心的反対論者に対抗できないでしょうか。(K.I)